2007年12月23日

プラトニック・シナジー理論からイエス・キリスト問題を考察する:その2:受肉説の崩壊と二人のイエス

昨日、イエス・キリスト問題をプラトニック・シナジー理論の視点から試論的に考察した。http://ameblo.jp/renshi/entry-10061584053.html
かなり複雑な内容となり、わかりにくいので、ここで、再考も含めて整理したい。
 結局、考察の発端は、スロー人ロハス氏の提起されたグノーシス主義説(仮現説)とキリスト教会説(受肉説)であった。そして、私は、プラトニック・シナジー理論から即非説を提唱した。
 先の論考では、即非説から、仮現説と受肉説を見て、両方とも否定する結果となったが、今、平静に見ると、即非説とは、超越エネルギーをイエスは即非共振しているということであり、即非共振している領域は、イエスの心(霊)であり、肉体ではないだろう。だから、仮現説と受肉説を考えると、仮現説は即非説と同じになると思えるのである。つまり、イエス・キリストとは、神霊の仮現であるということである。
 ただし、完全に仮現説を肯定するわけではない。なぜなら、仮現説だとイエスの心とは別に神霊があり、それが、イエスの心身に仮現しているということになるからである。即非説は、イエスの心(霊)において、神霊が即非共振していると考えるのである。これは、先に述べたように、イエスは神であり、また、神ではないということである。精密に言うと、イエスの心は神であり、同時に、神ではないということである。
 だから、まとめると、即非説は、受肉説(キリスト教セントラル・ドグマ)を完全に否定するが、仮現説に対しては、一部は正しいと認めることになるのである。すなわち、イエス・キリストは神の仮現(神ではない)という点は肯定するということである。しかし、仮現説は、イエスは神であるという点がないので、欠陥があると考えられるのである。
 これで、即非説、仮現説、受肉説の説明が整理できた。次に、問題をさらに複雑にした同一性の問題、ないしは、イエスの二面性あるいは、できれば、二人のイエスの問題を整理したい。
 この問題も上記の問題に匹敵するような最難問の一つである。これは、父の問題として捉え直すことができる。つまり、Media Pointにおいて、神霊エネルギー=超越エネルギーと共振した人物として、イエス・キリストがあるならば、それは、本来的には、太母の子となるはずである。神話学的に言えば、神霊エネルギーをイシスとすれば、イエスはオシリスである。日本神話では、天照大御神(あまてらすおおみかみ)に対する日御子(ひのみこ)=「天皇」である。カトリック的に言えば、聖母の子である。しかしながら、聖書では、イエスは神を父と呼んでいる。この矛盾をどう考えるのかということでもある。
 太母の子と父の子。私は、昨日の拙稿では、両者が混淆していると考えたのである。矛盾・二面性があると述べたのである。(二人のイエスという伝承があるが、ここで考察すると議論が混乱するので、残念ながら、避けることにする。)
 直感では、やはり、太母の子と父の子が重なっているのである。(私は、昔、新約聖書を読んで、強くイエスの分裂性を感じたものである。そう、わかりやすく言えば、平和の御子であり、同時に、戦争の魔神である。)だから、問題は、この重なりをどう理論化するのか、ということになる。本当に難しい問題である。つまり、いろいろ仮説が立てられるのである。やはり、二人のイエスの伝承を言う必要があるように思えるのである。
 結局、二人のイエスの伝承を仮説として取りあげれば、一人のイエスは太母の子であり、もう一人のイエスは父の子ではないかと思うのである。実際に二人のイエスが存して、それぞれ、違う教えを唱えたように思うのである。
 太母の子とは、結局、太古の秘儀・密儀の叡知に通じる考え方であり、プラトニズムとも共通する考え方から生まれたものである。それに対して、父の子とは、ユダヤ教のメシア待望から来ていると思われるのである。つまり、端的に言えば、ヤハウェの子である。
 結局、女神の子であるイエス(簡略して太母イエス)とヤハウェの子であるイエス(父の子)の二人が実際に存していたと仮定するのである。前者、 Media Pointの教えであり、それは、『トマスによる福音書』に現われたような教え(グノーシス主義的教え)を説いていたと考えられるのである。
 それに対して、ヤハウェの子のイエスは、自分がユダヤ教が待望した救世主であることを説いていたと考えられるのである。つまり、神人イエスである。(そう、これは、また、ゾロアスター教に関係すると言えよう。ハルマゲドン、千年王国、最後の審判等の問題である。)
 ここで、民衆の問題がでてくるのである。民衆はどちらのイエスの教えを受け入れたのか、である。当時、ローマ帝国の圧制に窮乏していた民衆は当然、救済する神を待望していたことは考えられるのである。また、諸宗教が混淆していたヘレニズム時代であることを考えなくてはならないだろう。太陽信仰のミトラス教もあったのである。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%88%E3%83%A9%E6%95%99
 思うに、民衆はそれらを知的に峻別したとは思えない。諸宗教が混淆したまま、信仰したに違いない。それを考慮して、二人のイエスを考えると、民衆は両者を受け入れたことが考えられるのである。要は民衆は両者を区別しなかったと考えられるのである。つまり、二人のイエスが民衆の心の中で、混淆していたということである。
 私の考えでは、福音書は、キリスト教会の立場から、二人のイエスの教えを、父の子の教えの視点から、まとめて書かれたものではないのかというものであったが、今、考えたのは、民衆の心中の二人のイエスの混淆された心象に基づいた書かれたものではないのか、ということである。
 とは言え、やはり、何らかの区別はあったと思うのである。しかしながら、福音書書記は、父の子の視点から、それを統一させようとして書いたと思われるのである。つまり、キリスト教会の視点から、福音書を書いたと思われるのである。
 整理しよう。二人のイエスがいた。太母の子のイエスと父の子のイエスである。そして、民衆は、両者を混淆した心象をもっていた。しかしながら、混淆していても、民衆は、なんらか、二人のイエスが存したことは認識していたはずである。しかしながら、福音書書記は、キリスト教会、即ち、父の子の視点から、二人のイエスの教えを統一しようとして書いた(創作した)と考えられる、ということである。
 しかしながら、福音書書記の努力によっても、二人のイエスの全く異なる教えは調和できなかったのである。正に、水と油の教えであるからである。平和と戦争を同時に説いているのだから。本来別々のものを、父の子の視点で統一しようとすることに無理があるのである。
 とまれ、後世において、キリスト教会・父の子の視点が勝利して、太母の子のイエスの教えが否定されていったと言えよう。つまり、キリスト教とは、二人のイエスの伝承・史実を無視して、また、太母の子のイエスの教えを父の子のイエスの教えに同化したものであるということである。端的に言えば、愛の教えとは、太母の子イエスの教えから発したものであり、それは、本来は、Media Pointのもつ差異共振性であると考えられるのである。それは、「汝自身を愛する如く、隣人を愛せよ」ではないはずである。「汝自身」という言い方が自我的である。それは、Media Pointにおいては、無我になるのが正しいのであり、汝という自我はないのである。これは、太母の子のイエスの差異共振性の教えが、父の子のイエスの自我主義によって歪曲されていると考えられるのである。
 とまれ、太母の子のイエスの教えと父の子のイエスの教えが、後者の視点で混淆しているのが福音書であると推察できるのである。
 最後に、父の子のイエスの同一性について説明した本稿を終えたい。これは、神人の観念と通じるのであるし、自我の観念に当然通じるのである。
 いったい、父の子とは何だろうか。父とは、超越的同一性志向性である。自己認識方程式では、+iであり、太極原理では、陽である。これは、同一性主義を生む根元である。だから、父の子であるイエスとは、直感では、同一性中心主義(ロゴス中心主義:教父たちは、イエス・キリストをロゴスの受肉と捉えたが、それは、教会の視点からは、恐ろしく正しい。いったい、教父たちとは何であったか。初期キリスト教会とは何であったのか。悪霊と悪魔の巣窟ではなかったのか。)である。
 そう、子とは何だろうか。それは、イシスとオシリスの宗教・神話からわかるように、イシスが太母であり、その子がオシリスである。イシスを月とすれば、オシリスは太陽である。もっとも、この区別は即非的である。イシスを太陽と見ることもできよう。
 とまれ、子とは、超越エネルギーが連続エネルギーへと転化することを意味すると思われるのである。自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1で見れば、⇒ +1であり、連続性・同一性を意味するだろう。しかしながら、父の超越的同一性志向性が基盤にあるので、父の子とは、超越的同一性主義になるということであろう。つまり、父の超越的同一性志向性が、父の子において終極(エンテレケイア)を形成して、超越的同一性主義になると考えられるのである。これが、父の子のイエスの哲学的意味である。これは、正に、近代合理主義の原点である。そして、悪魔主義である。父の子イエスとは端的に悪魔・魔神である。
 ということで、福音書のイエスには、福神と魔神が混淆しているのである。なんというアイロニーであろうか。しかし、事実である。これが、精神的観点から言えば、人類史上最大の災厄、最悪である西洋文明を生みだしたのである。
 今日、新たに、Media Point、Cosmic Media Point、Great Media Pointが啓かれていると考えられるのであり、新たな文明の入口に達していると考えられるのである。理論的には、ユダヤ・キリスト教西洋文明の日没であり、新たな東洋文明の曙光を意味すると考えられるのである。
 では、イエス・キリストはどうなるのだろうか。そう、太母の子のイエスは復活するのである。太母子教が生まれるだろう。新女神教である。太母子イエス教が生まれるだろう。D.H.ロレンスが『逃げた雄鶏(死んだ男)』で表した復活したイエスとは、正に太母の子のイエスである。
posted by sophio at 18:40| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(1) | プラトニック・シナジー理論入門 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

広告


この広告は60日以上更新がないブログに表示がされております。

以下のいずれかの方法で非表示にすることが可能です。

・記事の投稿、編集をおこなう
・マイブログの【設定】 > 【広告設定】 より、「60日間更新が無い場合」 の 「広告を表示しない」にチェックを入れて保存する。


×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。