2009年07月11日

検討問題:+iと-iの関係様相:父権的連続的同一性主義と母権的差異共振主義

今は余裕がないので、随想に留める。
 以前、男性は+iの傾斜があるといい、女性は、バランスがとれていると言った。しかしながら、女性は、-iの傾斜があるのではと言いたい誘惑がある。
 問題は、男性の場合、同一性化が女性よりも強いということである。だから、同一性傾斜があるということである。
 そして、女性の場合、差異共振性が保持されると思われるのである。もっとも、これは、理念的に言っているのである。
 言い換えると、男性の場合、差異共振エネルギーが連続的同一性化され、女性の場合は、それが、切断される契機をもっているということになる。つまり、女性の場合は、不連続・非連続になる傾向があるということである。
 これはどういうことなのか。女性の叡知(「ソフィア」)というものが、先天的にあるということなのか。力学的に考えよう。⇒+1の⇒を保持させる叡知があるということになろう。あるいは、Media Pointの叡知である。通俗的に言えば、バランスの叡知である。
 先に提起したことを作業仮説とすれば、+i/-i⇒-1の叡知があるということなのか。この⇒-1が連続的同一性化を否定するとは言えよう。とまれ、反・非連続的同一性化の叡知が女性には本来あるということになる。
 今は、作業仮説的に、⇒-1の反・非連続的同一性志向、即ち、不連続的志向性があるとしよう。
 ここで文化史・文明史的に見ると、母権文化から父権文化の転換において、前者の反・非連続的同一性志向性が否定されて、後者の連続的同一性志向性が肯定されたということになる。
 しかし、問題は、この転換を、物質性から精神性への転換と見るのが一般的なことである。女性は物質的で、男性が精神的であるという視点である。
 しかしながら、上記の視点では逆である。女性は精神的であり、男性こそ、物質的である。
 この混乱は、現象と物質を同一視する西洋文化の二元論性に由来すると考えられる(参考:フッサールの現象学)。先に述べたが、イデア⇒現象⇒同一性=物質であり、同一性=物質は抽象的仮象である。 
 とまれ、本視点から言うと、母権文化とは、イデア⇒現象的であるということであり、父権文化は形而上性(超越的同一性?=構造性)⇒同一性=物質的であるということである。
 この転換の意義はこれまで繰り返し述べたように、物質科学・技術の形成である。父権文化社会に転換しなければ、近代科学・技術はなく、未だに、井戸から水を汲み、川で洗濯をし、竈で食事を作っていた等をしていたと考えられる。それは、積極的な意味があったのである。
 しかし、それは、唯物論や狂気・暴力の不都合をもたらしたのである。
 今やトランス・モダンの時代である。これは、母権文化社会への螺旋的回帰と考えられる。父権文化社会の成果を批判的に包摂した超越的差異共振の文化社会の構築を意味するのである。
 今はここで留める。
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2009年02月24日

+iの意識と-iの「無」意識:差異・他者への不安苦に発する、同一性自己意識の優越感の発生

先に同一性自己(自我)が他者に対してもつ優越意識について検討したが、さらに考究したい。
 +iの同一性自己意識が、-iの差異他者を認識できるだろうか。というか、-i自体の存在を認識できるだろうか。
 根本的に考えたい。Media Point から+iの同一性認識が発生するが、それは、-iの存在を認識できるだろうか。端的に言えば、+iは意識であり、-iは無意識であり、原理的には、前者は後者を認識できない。後者は他者であり、一種の物自体である。
 私は何を言いたいのかと言うと、Media Point の原基性である。それは、精神身体=心身一如なのである。つまり、+iの同一性、-iの差異は、精神身体=心身一如のMedia Point から起動するということである。
 【精神身体とは、言い換えれば、「魂」(「アニマ」)と言えよう。「霊魂」でもいいだろう。そう、魂魄(こんぱく)でもいいだろう。これは、また、陰陽的心身である。簡略的に、陰陽魂ないしは陰陽体と呼ぼう。】
 そう、+iは-iを認識できないのは元より、Media Point =陰陽魂も認識できないだろう。何故なら、+iの同一性意識にとっては、源泉は隠蔽されていると考えられるからである。同一性志向性は源泉のMedia Point =陰陽魂を隠すからである。そして、形成された同一性自己意識は、心となり、物質的身体や物質的外界と分離されるのである(心身二元論)。
 深層心理学的に言うと、無意識はMedia Point であり、又、-iである。(もっとも、ここでは、構造の無意識性は含めない。それは、超越論的形式や精神分析の無意識であるが、延長すれば、ラカンの現実界やハイデガー/デリダの存在/差延も含められよう。)
 -iはおいておくが、Media Point が無意識であるという点が決定的である。つまり、意識の原基・源泉である精神身体のMedia Point が認識されないことは最高度に重大なことであるからである。即ち、精神身体性=心身一如性の無意識であることの重大さである。だから、同一性自己意識は、同一性知性に留まり、特異性(Media Point =精神身体)の知性、理性知性をもちえないのである。
 ここで、本題の同一性自己の優越感について考察しよう。端的に、いったい何に対して優越感をおぼえるのか。それは、他者に対してであろう。つまり、同一性自己はなんらか他者に対抗意識をもっているのである。そう、無意識領域において、他者への引け目を感じているのではないだろうか。他者とは差異である。そう。同一性+iにとって、差異・他者-iは認識できない不安による苦をもたらすものである。この、いわば、不安苦に対して、同一性は同一性自己意識を形成することで、差異・他者に対して、優越感をおぼえるということではないか。
 ということは、+iは無意識領域では、漠然と差異・他者-iを感じ、不安苦をおぼえるのであり、それを否定するように同一性自己意識を形成して、優越感をもつようになるということではないのか。
 先の優越感の説明は、同一性志向性が(超越的同一性の)鏡像へと投影する際に、差異共振性を否定することから優越感を生まれるというものであった。しかし、上述では、(内的、ないしは外的な)差異・他者への不安苦に対する否定から優越感が発生するというものである。
 先の説明は、いわば、構造的であり、内的葛藤がないものである。後の説明は、原理に内的葛藤を見ているのであり、「人格」的である。そう、個的である。同一性+i(正確に言えば、原同一性+iである)は差異-i(Media Point を含めていい)を認識できないために、不安苦を感じるのであり、それを解消するために、差異-iを否定して、差異に対して優越性を感じるのである。言い換えると、差異に対する勝ち誇った、おごりの感情を感じるのである。後でもう少し整理したい。
posted by sophio at 02:31| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | プラトニック・シナジー理論入門 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年01月03日

観るとは何か:眼を介して、心で観る(心観・心眼・霊眼):都市空間視覚と天然自然視覚の分裂から、トランス・モダン視覚へ

観るとは何か:眼を介して、心で観る(心観・心眼・霊眼):都市空間視覚と天然自然視覚の分裂から、トランス・モダン視覚へ

田舎(農村地帯)に居ると、空気が澄んでいるので、空や空を背景にするものがよく見えるのである。先ほどは、東京では、不気味に夜に声を聞くことが多い烏であるが、大群が、北から南へと急流に流されるように滑空して飛んでいた。ダイナミックな動きであり、感心した。
 澄んだ西空を見て、思ったのは、肉眼中心で見るのと、肉眼を介して心で見るのとの違いである。前者は自我中心的視覚であり、後者は差異共振・心的視覚であると考えられる。今日一般の日本人の視覚が前者であると思う。近代合理主義・近代的自我の視覚なのである。これは、心の死であり、神の死である。死せる魂である。亡魂である。死んだマグロの眼である。
 後者はいわゆる心眼というものに近いかもしれないが、心眼ほど玄妙なものではなく、もっと平明な、日常的なものでありうると思う。もっとも、心眼と言ってもいいのかもしれない。私としては、心観・心見とか呼びたいのである。(以下、心眼を用いている。)
 先に見た夢の中で、私は道と道の間の公園の樹木に咲く花を心の目で見ていた。心と花が共振してその美に触れていた。どうも、それがいわば予兆であったろう。予知夢である。私の中に、心の目が復活したようである。心観(心眼・心視)である。
 とまれ、この心観・心眼・心視の形成というか復活によって、これまで私が当惑した視覚の問題が解決できたと思う。すなわち、心の目は外的対象と共振するのである。とりわけ、自然と共振して天然美を感受するのである。この体験は、美術・芸術の肝である。美術・芸術の美の根源である。いわゆる、ロマン主義と呼ばれた世界観もこれに拠ると考えられるのである。もっとも、古典主義もやはりベースには、天然美の体験があるとは思うが、それが、自我同一性形式(線形性、シンメトリー等)によって拘束されているのである。
 具体的に言うと、若い日、学生の頃である。夕焼けが、私の意識から遠くへ行ってしまう経験をもった。それまでは、夕焼けと心が結びついていたが、それが、離れて行く、喪失経験をした。そう、私の意識では、この分離経験と一体経験との分裂性が残ったのである。いわば、統合失調症である。これは、文化史的に言えば、未分化的太母文化と父権文化、あるいは、前近代文化と近代文化との分裂様態と言える。そう、私は一種の分裂症であったのだろう。思えば、漱石の『草枕』の冒頭の有名な「智に働けば、角が立つ。情に棹させば流される。」に似たような経験と言えるだろう。そう、漱石も近代主義に拠る分裂に悩んだ天才的知識人である。
 とまれ、私のこれまでの生涯は、この分裂症に悩んできたと言えるかもしれない。しかしながら、今や、私の意識の中には、はっきりと、心が存するのである。そして、感覚を介して、心で知覚することができるのである。そう、脱自我となり、自己形成できたと言えよう。確かに、肉眼は、自我と結びつくが、心眼は自己と結びつく。私は、自我であり、且つ、非自我=自己である。(正に、自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1の様相である。)
 まだ、精緻には考察していないが、心の知覚があり、また、肉体的感覚がある。視覚に限定すると、心の視覚(心眼)があり、身体的視覚(肉眼)があるが、心眼(Media Point)が同一性化して、身体的視覚(肉眼)と結びつく。つまり、心眼は肉眼へ同化吸収されて、心眼本来の差異共振性を喪失する。これが、近代的自我の視覚様態である。近代合理主義・唯物論的視覚、冷たく光る不気味な支配せんとする悪霊の眼である。
 しかしながら、心眼(差異)が完全に肉眼(同一性)に吸収されることはできない。心眼が無意識において作用しているのである。だから、近代主義の都市空間を離れて、自然天然空間に置かれると、自然天然空間の光、差異共振的光に晒(さら)されて、心眼が賦活・活性化されるのである。励起されると言ってもいいのかもしれない。そのとき、私の体験では、コスモス(心的宇宙)を感得することが多い。コスモスとは、端的に、Media Pointの経験と言っていいだろう。近代主義の都市空間では、この経験はほとんど閉ざされるが、天然自然空間では、これが生起するのである。
 そう、思えば、学生の時の分裂の悩みはこれで説明できるのである。近代主義の都市空間の視覚と天然自然空間の差異共振的な視覚との分裂である。戦後日本人は、この分裂を無視して前者に同一性化したのである。日本人の心的視覚を捨てて、近代合理主義/近代的自我の視覚を受容したのである。これは、日本の心の死であり、神の死である。日本文化の死である。三島由紀夫の言う「断絃」である。(これは、連合国占領軍と亡国・売国的支配者との野合によると考えられる。小泉路線は、これである。)
 そう、社会的に問題なのは、近代主義的都市空間の視覚が支配的であるとき、天然自然の差異共振的視覚が否定されるのである。だから、本当に心眼をもった人は排除されやすいのである。(イジメの問題はこれが関係することが多いと思う。)東京中心に近代主義的都市空間視覚が支配的なので、これが、日本全体に蔓延する事態になっている。洗脳である。
 とまれ、問題に返ると、近代主義的視覚に対して、心眼があるが、抑圧される。しかるに、今日、心眼である差異エネルギーが賦活されているのである。この点については、これまで、太極原理で説明した。陽極まれば陰に転ずと。
 丁寧に見るなら、これは、自由のエネルギーが陽(同一性)の方向へと展開したが、今や、それが反転して、陰(差異)への方向へと向かっているのではないだろうか。ポスト・モダンである。自由のエネルギーとは、端的には、Media Pointのエネルギーということだろう。【私はイタリア・ルネサンスが新たなMedia Pointの発動と考えているし、プロテスタンティズムも基盤がこれであるが、それが同一性主義(近代合理主義/近代的自我)に傾斜しているのである。つまり、これまで述べてきたように、プロテスタンティズムはルネサンスを否定的に内在しているということでもある。】
 ということで、自由のエネルギーは陰(差異)へと今や転じているわけであるが、問題は、ポスト・モダン様態になっていることである。つまり、同一性主義の枠組みから脱していないのである。そのために、アイロニカルな没入・反動が起こっているのである。ネオコンや小泉構造改革がそうである。また、私見では、サブプライムローン問題もそうである。過剰な同一性主義、ハイパー・モダンが生じているのである。そして、心の病(私は心病と呼んでいるが)の根因もここにあると考えているのであり、また凶悪犯罪の根因もここにあると考えている。確かに、較差問題が引き金になっているとは考えられるのではあるが。
 この、いわば、私がとりわけ若い頃経験した「分裂症」に今日日本が陥っていると考えられるのである。結局、自由のエネルギーは陰や差異へと向かっているのであり、それを実現するには、ポスト・モダンを越えて、トランス・モダンへと転換する必要があるのである。純粋な差異へと転化しなくてはならないのである。結局、同一性主義から「解脱(げだつ)」して、差異(差異共振性、心)へと回帰する必要があるのである。
 簡単に、この「解脱」の方法を理論的に説明すると、第一歩は、同一性と差異とを不連続化することである(不連続的差異論)。それで、自我同一性と自己差異(特異性)が分離するのである。しかしながら、後者の自己差異とは、実は、差異共振性なのである。これを自己測深して感得する必要がある。そして、また、自我同一性と自己差異とが、Media Point(ガウス平面の原点)において、直交していることを認識する必要がある。即ち、自己差異とは、超越的差異なのであり、高次元的自己なのであるという認識の必要である。そして、最後は、自己主体とは、自己差異が主であり、自我同一性は従であると認識会得し、また、実践することであると思う。差異主同一性従、心主我従である。即ち、差異共振的自己が主であり、同一性自我は従であるということである。これが、心眼の復活をもたらすと思えるのである。
 さて、以上が、日本の復活の哲学的鍵である。不思議なことに、それは、日本の伝統への回帰なのである。それは温故知新であり、また、正確には螺旋的回帰なのである。東洋・日本伝統文化への螺旋的回帰なのである。即ち、西洋文化を経由して、東洋・日本伝統文化へと螺旋的回帰するのである。そして、これが、トランス・モダンである。父権統合型新太母文化である。差異共振文化である。
 思うに、私が心眼を復活させたのであるから、共時的に、多くの人にもこれが起こっていると考えられるのである。Media Resonanceメディア共鳴である。宝瓶宮(ほうへいきゅう)[水瓶座]文化期が胎動しているのである。
 
聴く耳を持つものは聴くがいい。
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2007年12月23日

プラトニック・シナジー理論からイエス・キリスト問題を考察する:その2:受肉説の崩壊と二人のイエス

昨日、イエス・キリスト問題をプラトニック・シナジー理論の視点から試論的に考察した。http://ameblo.jp/renshi/entry-10061584053.html
かなり複雑な内容となり、わかりにくいので、ここで、再考も含めて整理したい。
 結局、考察の発端は、スロー人ロハス氏の提起されたグノーシス主義説(仮現説)とキリスト教会説(受肉説)であった。そして、私は、プラトニック・シナジー理論から即非説を提唱した。
 先の論考では、即非説から、仮現説と受肉説を見て、両方とも否定する結果となったが、今、平静に見ると、即非説とは、超越エネルギーをイエスは即非共振しているということであり、即非共振している領域は、イエスの心(霊)であり、肉体ではないだろう。だから、仮現説と受肉説を考えると、仮現説は即非説と同じになると思えるのである。つまり、イエス・キリストとは、神霊の仮現であるということである。
 ただし、完全に仮現説を肯定するわけではない。なぜなら、仮現説だとイエスの心とは別に神霊があり、それが、イエスの心身に仮現しているということになるからである。即非説は、イエスの心(霊)において、神霊が即非共振していると考えるのである。これは、先に述べたように、イエスは神であり、また、神ではないということである。精密に言うと、イエスの心は神であり、同時に、神ではないということである。
 だから、まとめると、即非説は、受肉説(キリスト教セントラル・ドグマ)を完全に否定するが、仮現説に対しては、一部は正しいと認めることになるのである。すなわち、イエス・キリストは神の仮現(神ではない)という点は肯定するということである。しかし、仮現説は、イエスは神であるという点がないので、欠陥があると考えられるのである。
 これで、即非説、仮現説、受肉説の説明が整理できた。次に、問題をさらに複雑にした同一性の問題、ないしは、イエスの二面性あるいは、できれば、二人のイエスの問題を整理したい。
 この問題も上記の問題に匹敵するような最難問の一つである。これは、父の問題として捉え直すことができる。つまり、Media Pointにおいて、神霊エネルギー=超越エネルギーと共振した人物として、イエス・キリストがあるならば、それは、本来的には、太母の子となるはずである。神話学的に言えば、神霊エネルギーをイシスとすれば、イエスはオシリスである。日本神話では、天照大御神(あまてらすおおみかみ)に対する日御子(ひのみこ)=「天皇」である。カトリック的に言えば、聖母の子である。しかしながら、聖書では、イエスは神を父と呼んでいる。この矛盾をどう考えるのかということでもある。
 太母の子と父の子。私は、昨日の拙稿では、両者が混淆していると考えたのである。矛盾・二面性があると述べたのである。(二人のイエスという伝承があるが、ここで考察すると議論が混乱するので、残念ながら、避けることにする。)
 直感では、やはり、太母の子と父の子が重なっているのである。(私は、昔、新約聖書を読んで、強くイエスの分裂性を感じたものである。そう、わかりやすく言えば、平和の御子であり、同時に、戦争の魔神である。)だから、問題は、この重なりをどう理論化するのか、ということになる。本当に難しい問題である。つまり、いろいろ仮説が立てられるのである。やはり、二人のイエスの伝承を言う必要があるように思えるのである。
 結局、二人のイエスの伝承を仮説として取りあげれば、一人のイエスは太母の子であり、もう一人のイエスは父の子ではないかと思うのである。実際に二人のイエスが存して、それぞれ、違う教えを唱えたように思うのである。
 太母の子とは、結局、太古の秘儀・密儀の叡知に通じる考え方であり、プラトニズムとも共通する考え方から生まれたものである。それに対して、父の子とは、ユダヤ教のメシア待望から来ていると思われるのである。つまり、端的に言えば、ヤハウェの子である。
 結局、女神の子であるイエス(簡略して太母イエス)とヤハウェの子であるイエス(父の子)の二人が実際に存していたと仮定するのである。前者、 Media Pointの教えであり、それは、『トマスによる福音書』に現われたような教え(グノーシス主義的教え)を説いていたと考えられるのである。
 それに対して、ヤハウェの子のイエスは、自分がユダヤ教が待望した救世主であることを説いていたと考えられるのである。つまり、神人イエスである。(そう、これは、また、ゾロアスター教に関係すると言えよう。ハルマゲドン、千年王国、最後の審判等の問題である。)
 ここで、民衆の問題がでてくるのである。民衆はどちらのイエスの教えを受け入れたのか、である。当時、ローマ帝国の圧制に窮乏していた民衆は当然、救済する神を待望していたことは考えられるのである。また、諸宗教が混淆していたヘレニズム時代であることを考えなくてはならないだろう。太陽信仰のミトラス教もあったのである。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%88%E3%83%A9%E6%95%99
 思うに、民衆はそれらを知的に峻別したとは思えない。諸宗教が混淆したまま、信仰したに違いない。それを考慮して、二人のイエスを考えると、民衆は両者を受け入れたことが考えられるのである。要は民衆は両者を区別しなかったと考えられるのである。つまり、二人のイエスが民衆の心の中で、混淆していたということである。
 私の考えでは、福音書は、キリスト教会の立場から、二人のイエスの教えを、父の子の教えの視点から、まとめて書かれたものではないのかというものであったが、今、考えたのは、民衆の心中の二人のイエスの混淆された心象に基づいた書かれたものではないのか、ということである。
 とは言え、やはり、何らかの区別はあったと思うのである。しかしながら、福音書書記は、父の子の視点から、それを統一させようとして書いたと思われるのである。つまり、キリスト教会の視点から、福音書を書いたと思われるのである。
 整理しよう。二人のイエスがいた。太母の子のイエスと父の子のイエスである。そして、民衆は、両者を混淆した心象をもっていた。しかしながら、混淆していても、民衆は、なんらか、二人のイエスが存したことは認識していたはずである。しかしながら、福音書書記は、キリスト教会、即ち、父の子の視点から、二人のイエスの教えを統一しようとして書いた(創作した)と考えられる、ということである。
 しかしながら、福音書書記の努力によっても、二人のイエスの全く異なる教えは調和できなかったのである。正に、水と油の教えであるからである。平和と戦争を同時に説いているのだから。本来別々のものを、父の子の視点で統一しようとすることに無理があるのである。
 とまれ、後世において、キリスト教会・父の子の視点が勝利して、太母の子のイエスの教えが否定されていったと言えよう。つまり、キリスト教とは、二人のイエスの伝承・史実を無視して、また、太母の子のイエスの教えを父の子のイエスの教えに同化したものであるということである。端的に言えば、愛の教えとは、太母の子イエスの教えから発したものであり、それは、本来は、Media Pointのもつ差異共振性であると考えられるのである。それは、「汝自身を愛する如く、隣人を愛せよ」ではないはずである。「汝自身」という言い方が自我的である。それは、Media Pointにおいては、無我になるのが正しいのであり、汝という自我はないのである。これは、太母の子のイエスの差異共振性の教えが、父の子のイエスの自我主義によって歪曲されていると考えられるのである。
 とまれ、太母の子のイエスの教えと父の子のイエスの教えが、後者の視点で混淆しているのが福音書であると推察できるのである。
 最後に、父の子のイエスの同一性について説明した本稿を終えたい。これは、神人の観念と通じるのであるし、自我の観念に当然通じるのである。
 いったい、父の子とは何だろうか。父とは、超越的同一性志向性である。自己認識方程式では、+iであり、太極原理では、陽である。これは、同一性主義を生む根元である。だから、父の子であるイエスとは、直感では、同一性中心主義(ロゴス中心主義:教父たちは、イエス・キリストをロゴスの受肉と捉えたが、それは、教会の視点からは、恐ろしく正しい。いったい、教父たちとは何であったか。初期キリスト教会とは何であったのか。悪霊と悪魔の巣窟ではなかったのか。)である。
 そう、子とは何だろうか。それは、イシスとオシリスの宗教・神話からわかるように、イシスが太母であり、その子がオシリスである。イシスを月とすれば、オシリスは太陽である。もっとも、この区別は即非的である。イシスを太陽と見ることもできよう。
 とまれ、子とは、超越エネルギーが連続エネルギーへと転化することを意味すると思われるのである。自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1で見れば、⇒ +1であり、連続性・同一性を意味するだろう。しかしながら、父の超越的同一性志向性が基盤にあるので、父の子とは、超越的同一性主義になるということであろう。つまり、父の超越的同一性志向性が、父の子において終極(エンテレケイア)を形成して、超越的同一性主義になると考えられるのである。これが、父の子のイエスの哲学的意味である。これは、正に、近代合理主義の原点である。そして、悪魔主義である。父の子イエスとは端的に悪魔・魔神である。
 ということで、福音書のイエスには、福神と魔神が混淆しているのである。なんというアイロニーであろうか。しかし、事実である。これが、精神的観点から言えば、人類史上最大の災厄、最悪である西洋文明を生みだしたのである。
 今日、新たに、Media Point、Cosmic Media Point、Great Media Pointが啓かれていると考えられるのであり、新たな文明の入口に達していると考えられるのである。理論的には、ユダヤ・キリスト教西洋文明の日没であり、新たな東洋文明の曙光を意味すると考えられるのである。
 では、イエス・キリストはどうなるのだろうか。そう、太母の子のイエスは復活するのである。太母子教が生まれるだろう。新女神教である。太母子イエス教が生まれるだろう。D.H.ロレンスが『逃げた雄鶏(死んだ男)』で表した復活したイエスとは、正に太母の子のイエスである。
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2007年09月29日

自由主義経済の問題:資本主義的自由主義と差異共生主義:トランス・モダン共生体経済へ向けて

自由とは何だろうか。西洋近代においては、封建体制というよりは、絶対主義的国家体制への反抗から自由が生まれたと言えよう。アメリカ合衆国の、イギリスに対する反抗としての独立戦争があった。
 ここにあるのは、経済を営む「市民」の自由を求める積極的闘争があり、また、その勝利があった。そして、近代的自由主義が生まれた。ここには、経済的市民の自由が主体であり、国家的束縛に対する反抗がある。
 問題は、この経済的市民の自由とは何か。当然ながら、それは、経済的フィールドにおける自由である。おそらく、本来、それしか意味しないはずである。だから、経済的自由主義と言えるのではないだろうか。そして、この場合の経済は資本主義であるから、資本主義的自由主義ということになるだろう。
 問題は、経済的自由主義ないしは資本主義的自由主義は、経済領域においてのみ、妥当であるのであり、他の領域においては、妥当しないという点にあるのではないだろうか。つまり、社会領域、生活領域、自然・環境領域、精神領域等においては、それは、本来妥当しないのではないだろうか。というのは、経済的自由主義・資本主義的自由主義は、力強いものであるが、それは、闘争・戦争的自由主義であり、他者破壊的であるからである。
 必然的に経済的自由主義/資本主義的自由主義を矯める、制御する原理が必要ということになるだろう。グローバリズムの現代、それが正に欠落していると言えよう。
 経済的自由主義/資本主義的自由主義は、経済以外の領域にとって、独裁よりは、一般には弱いが、それでもきわめて恐ろしい原理である。これは、言わば、交換価値絶対主義である。差異を利用しつつも、量的な同一性価値=交換価値を絶対視する原理である。これは、明らかに、自然な人間的価値、民主主義的価値、あるいは精神・文化的価値等々を解体・破壊するものである。つまり、端的に言えば、経済的自由主義/資本主義的自由主義は、民主主義に対立するのである。だから、自由民主主義という観念は、矛盾体である。自由主義vs民主主義が本体・真理である。(ブッシュのいう民主化とは、だから、正に、資本主義的自由主義のイデオロギーであり、民主主義が出汁にされているのである。)
 とまれ、資本主義的自由主義と民主主義を分離する必要があり、前者を制御・統御する原理が必要である。それは何であろうか。非常に難しい問題であるが、一つは資本主義的自由主義よりも、すぐれた経済原理である。とりあえず、トランス・モダン経済原理と作業仮説しておこう。また、一つは、唯物論的認識の超克、霊的認識の普及であろう。これは認識の問題であるが、重要なものであり、前者のトランス・モダン経済原理を支える認識となると考えられる。
 では、トランス・モダン経済原理とは何だろうか。そのようなものがあるのだろうか。これまで、私が差異共振経済、差異共生経済、差異資本主義、共生資本主義等と呼んできたものがそれに当たると考えられるのである。プラトニック・シナジー理論によるトランス・モダン経済原理である。
 そう、以上の考察から、差異資本主義ないしは共生資本主義という用語は、自由民主主義と同じ矛盾体であるので、それは廃棄しないといけないだろう。差異共振経済、差異共生経済ないしは、以前使用した差異共創共生経済(差異共創生経済)と呼んでおきたい。便宜上、簡単に差異経済と呼びたい。(だから、資本主義は同一性経済である。)
 差異経済のポイントの一つは、生産し、得た利益(同一性)に対して、それを、差異共生価値(差異共振価値)と見て、独占化しないことである。森や自然を破壊して得た利益は、本来、自然や他者を内包した差異共生価値である。だから、それは独占することは不正なのである。差異共生価値としての利益なのである。だから、資本は差異共生資本となるのであり、投資も差異共生投資となるのである。
 資本主義企業は差異共生企業と転換して、差異共生投資をして、差異共生事業を展開することになるのである。おそらく、国家の役割は小さくなるだろう。この点では、新自由主義と同じである。そして、金融銀行は、差異共生銀行となるだろう。(このとき、銀本位制や無利子金融や消滅貨幣が役立つだろう。)
 問題は、差異共生経済の導入である。例えば、トヨタで考えよう。莫大な利益を上げているが、それは円安その他の影響でもたらされていると言えよう。トヨタの利益を差異共生価値と見ないといけない。環境破壊に対して、差異共生投資を義務づける必要がある。
 問題は、競争である。大企業から、差異共生投資をしていたら、競争に負けると言うだろう。しかしながら、莫大な利益を上げているのであるから、差異共生投資をしても、車の開発のための資本はあるはずである。もっとも、開発も差異共生投資に入るのである。よりよいものを目指すのは、差異共生主義に入る事柄である。差異は独創的でありつつ、共生主義なのであるからだ。
 ということで、資本主義的自由主義から差異共生経済への転換を簡単ながら説明した。
 

参考1:
自由主義
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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自由主義(じゆうしゅぎ)とは政治思想 の一つ。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E7%94%B1%E4%B8%BB%E7%BE%A9


Liberalism
From Wikipedia, the free encyclopedia

http://en.wikipedia.org/wiki/Liberalism





参考2:
ジョン・ロールズ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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ジョン・ロールズ(John Rawls, 1921年 2月21日 - 2002年 11月24日 )は、20世紀アメリカ を代表する政治哲学者 、道徳哲学者 。
1971年 に刊行した『正義論 』(A Theory Of Justice
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%82%BA
John Rawls
From Wikipedia, the free encyclopedia
http://en.wikipedia.org/wiki/John_Rawls
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2007年09月26日

次元について:Media Point Planeと現象三次元空間:ディオニュソスとアポロ

この問題は、アポリア(難問)である。今の段階で、最高の理論的難問である。今日、昼間、考えたことから考察したい。
 これまで、三次元空間を前提にして、次元形成の問題を考えてきたが、一番のポイントは、第三次元ないしは奥行きの次元にあると思われる。というのは、奥行きの次元は、遅れて発生したと考えられるからである。つまり、遠近法の形成は、近代の出来事であり、それ以前には、存在しなかったからである。そこで、三次元を前提にするのではなく、直感から次元問題を考察しよう。
 コスモスと言うとき、それは、森羅万象が一体となっている様態である。例えば、私は列車の窓外の真っ白な雪を頂いた立山連峰を見ているとしよう。列車は立山連峰に近づいてきて、窓外には、巨大な連峰が聳え立ち、私はその存在に圧倒される。私と立山連峰は一体となり、宇宙的なシンフォニーが奏でられる。ブルックナーの第八交響曲のようである。
 コスモス的体験とは、端的に、Media Pointの体験である。ここにおいて、心ないしは心身は垂直的経験をして、森羅万象とつながるのである。つまり、差異共振化するのである。
 そう、この体験の次元を問題にしたいのである、先ず。ここでは、他者と私は一体(一如)であるから、遠近法が成立たない。つまり、通常の距離感が消滅しているのである。だから、三次元空間はないことになる。直感では、二次元である。平面空間があると思う。思うに、これが、ガウス平面をつながるのではないだろうか。
 何故ならば、Media Pointにおいて、垂直的共振によって、私は他者(差異)と一体であるという体験をすると考えら、また、私の視線は、窓外の巨大に聳え立つ雪の衣を着た立山連峰、即ち、外的対象を捉えているので、実軸の出来事と考えられ、結局、垂直と水平との重なりの空間(=コスモス)があり、それは正に、二次元平面空間としてガウス平面と通じると推測されるからである。これを作業仮説としよう。
 つまり、現象発生論的に見ると、三次元空間ないしは四次元時空間の発現以前に、Media Pointの事象があるのであり、それは、二次元空間であると考えられるのである。
 では、次に、奥行き、遠近の発生の問題である。Media Pointにおけるコスモス的体験(ディオニュソス的体験とも言えるだろう)を鎮まると、主客分離が生起して、私と立山連峰は別々の存在になる。ここににおいて、遠近・奥行きが発生すると言えよう。それまでは、上下・左右が存在したが、これに前後が付け加わるのである。つまり、三次元空間が発生するのである。ニーチェの言葉で言えば、アポロ的なものが形成されるのである。これで、三次元空間の発生は説明がつくだろう。
 では、時間はどうなるのだろうか。Media Pointにおける私と立山連峰との一体感におけるコスモス体験において、私は、宇宙的シンフォニーが奏でられると言ったが、音楽の発生に注意すべきである。これは、正に、時間的なものが発生しているのである。エネルギー(エネルゲイア)が発生していると考えられるのである。つまり、コスモス体験とは、三次元時空間を意味すると考えられるのである。
 そして、Media Pointから物質的現象化によって、三次元空間が発現するのであるが、隠れたMedia Pointにおいて時間次元(=エネルゲイア次元)が潜在しているのと言えよう。これで、四次元時空間としての現象時空間が説明できよう。
 さらに考察すると、Media Pointにおける三次元時空コスモスと物質的現象界における四次元時空間との関係をどう見るべきなのだろうか。前者の方が高次元であるのに、次元数が少ないのはおかしいと言えよう。どう考えるべきなのか。換言すると、平面空間から立体空間への変化をどう考えたらいいのか。
 問題点は、どうして、遠近・前後・奥行きを付け加わるのかという点にあるだろう。それは端的に、Media Pointの垂直次元・超越的次元が消失するからであろう。その換わりに、同一性の遠近法が発生するということになるだろう。つまり、差異と差異との共振次元が消えて、同一性の次元が発生して、それが、遠近・前後・奥行きの次元になるのではないだろうか。
 思うに、この同一性の次元の発生が、純粋な三次元空間(近代的物理空間)の発生を意味するのではないだろうか。それまでは、上下は天地の次元であり、天は神の領域であり、地は被造物の領域であったし、また、左右も左は悪しき方向(英語の「邪悪な」のsinisterは語源では「左手の」を意味する)で、右(英語でrightは、右であり、正しいを意味する)が正しい方向であったろう。
 とまれ、Media Point的空間(ディオニュソス的空間)から同一性的空間(アポロ的空間)へと転換して、遠近・前後・奥行きが発生したと言えよう。イタリア・ルネサンス絵画の遠近法(背後に風景が描かれる)の発生である。
 だから、平面空間(三次元時空間)から立体空間(四次元時空間)への転換に関する問いに答えるならば、Media Pointにおける平面空間とは、超越次元をもつ平面空間であり、現象空間とは同一性に基づく立体空間であり、両者において、次元の意味が異なっているので、量的な比較は意味がないということになるだろう。
 正確に言えば、Media Pointの空間とは、量的な、同一性的な二次元空間ではなく、超越的な二次元空間である。言い換えると、超越的な平面空間が同一性的な立体空間へと転換したということである。言い換えると、超越的垂直が、同一性的垂直(上下)と同一性的遠近(前後:思うに、時間的前後ではないだろうか)を発生させたということではないだろうか。
 では、左右はどうなのだろうか。今のところは、作業仮説として、垂直から水平への転換において、最初に発生するのが、左右的水平性であるとしておきたい。つまり、Media Point Plane(Media Point平面)において、超越的垂直(超越的上下)と水平(左右)の平面空間が発生したと考えるのである。つまり、ガウス平面の発生そのものと言えるのではないだろうか。
 最後に、ドゥルーズとガタリの共著において、共立平面ないしは存立平面という概念がよく使用されていたが、思うに、この平面は、正しくは、Media Point Plane(メディア・ポイント平面)ではないだろうか。そうした方が、差異の共立・共振を明確に考えることができるのである。何故なら、ドゥルーズとガタリの連続的差異の共立の考え方では、差異の同一化がもたらされてしまうからである。
 今はここで留めておきたい。
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2007年05月06日

差異共振シナジー性の理論的構成:二つの差異共振空間:超越的波動空間(MP空間)と物質的波動空間(量子空間)

差異共振シナジー性の理論的構成:二つの差異共振空間:超越的波動空間(MP空間)と物質的波動空間(量子空間):

差異的同一性を差一性(ないし差同性)と呼ぶ。すなわち、差一性Aと差一性Bとにおける差異共振性(差異共振シナジー性)の実質はどういうものなのか。 A≠Bであり、同時に、A=Bであるという即非の論理がここで成立する。通常の論理では、不等号の論理であるか、A=Aの同一性等価の論理が作用する。即非における等価の論理では、差一性が共振している。ここで、図式化してみよう。

差一性1・差異共振性1・差一性2・差異共振性2・差一性3・差異共振性3・・・

差一性をDifference Identity(DI)として、差異共振性をDifference Resonance(DR)とすると、

DI1-DR1-DI2-DR2-DI3-DR3-・・・・・

となる。簡略化して、差一性を同一性Iとして、差異共振性を共振性Resonanceとすると、

I1―R1−I2−R2−I3−R3−・・・・

となるだろう。そして、MEDIA POINT(以下、MP)の理論を挿入すると、

I1-MP-I2-MP-I3-MP-I4-・・・・

となるだろう。MPは、普遍共通だから、序数をつける必要はないと考えられる。Iを元に戻して、差一性にすると、

差一性1−MP−差一性2−MP−差一性3−MP−差一性4−・・・

結局、差一性Aと差一性Bとは、メディア・ポイントを介して、共振するのである。ここで、即非の論理が成立するのである。だから、即非論理をメディア・ポイント論理(MP論理)と呼ぶこともできよう。
 とまれ、これで差異共振性の意味が明快になったと言えよう。個と個とは、メディア・ポイントを介して、超越的に共振するのであり、このときには、新たな超越的エネルギーが放出されるのである。しかし、これは、エネルギー保存則から、消滅するエネルギーである。生成消滅的エネルギーである。だから、思うに、イデア界・超越界においては、イデア・超越的差異共振性のデュナミス、即ち、ポテンシャル・エネルギーがあり、それが、メディア・ポイントを介して、エネルゲイア化・エネルギー化すると考えられる。つまり、m(ic)*(-ic)⇒E=mc^2というエネルギー公式で考えると、⇒の左辺は超越界・イデア界のデュナミス(ポテンシャル・エネルギー)を意味して、⇒の右辺がエネルゲイアではないだろうか。
 そう考えると、これまで、超越的エネルギーと呼んでいたものをどう考えるのかという問題が生じる。思うに、⇒が超越的エネルギーを意味するのではないだろうか。そう、⇒がメディア・ポイントであり、ここにおいて、超越的デュナミスが超越的エネルギーになり、また、物質的エネルギーになると考えられるのではないか。この物質的エネルギーが、いわゆる、電磁波である。例えば、「気」は、超越的エネルギーであるが、観測装置では、電磁波や磁気として検証されるということのように考えられるのである。あるいは、端的に、精神ないし霊の場合を考えよう。それも、「気」とまったく同様に考えられよう。精神ないし霊は超越的エネルギーであるが、それは、科学的には、電磁波ないし磁気として観測されるのである。
 思うに、なんらかの原因で、共振化がメディア・ポイントにおいて発動すると、それは、超越的エネルギー、そして、物質的エネルギーとなるが、それは、超越的波動であり、物質的波動(電磁波)であろう。問題は、この波動空間である。超越的波動空間とは何なのか。物質的波動(電磁波)は、現象空間を伝播する。物質的波動(電磁波)は、メディア・ポイントを介して、現象軸(ガウス平面の実数軸を現象軸と呼ぶ)を伝播すると考えられよう。
 では、超越的波動空間は何処なのか。これは、推察されるのは、端的に、メディア・ポイントである。そして、多数・無数のメディア・ポイントが存すると考えられるので、いわば、メディア・ポイント空間が超越的波動空間と言えるだろう。これは、個体と個体、個物と個物、個と個、差一性と差一性、同一性と同一性の間に存する不連続的空間である。だから、物質的波動空間(電磁波空間)とは微妙に異なると言えよう。物質的波動空間とは、メディア・ポイントを介する現象軸空間であるが、超越的波動空間とは、メディア・ポイント空間である。それは、超越的空間(イデア界)と現象的空間(現象界)との中間である。メディア空間とも言えよう。
 考えると、物質的波動空間と超越的波動空間とは、微妙な関係にある。前者は、量子空間と言ってもいいものであるし、それは、超越的波動空間と交差していよう。ここで区別するならば、物質的波動空間=量子空間とは、メディア・ポイント連続空間であり、超越的波動空間=メディア・ポイント空間とは、メディア・ポイント不連続空間であると言えるのではないだろうか。
 しかしながら、前者の問題は、実は、メディア・ポイントに接しているので、本来、不連続なのである。しかし、物質的連続主義から、その不連続性を否定しようとしているのである。非局所的長距離相関の概念や粒子と波動の相補性という概念がそのようなものと考えられるのである。言い換えると、端的に、物質的波動空間=量子空間とは、物質論理的には、矛盾を抱えた空間、即ち、不整合な空間であると言えるだろう。本質は不連続でありながら、連続性によって糊塗しようとするのである。当然、これが、量子力学が壁にぶつかっている根因である。標準理論の破綻、ダークエネルギー問題等々も、ここに原因があると言えよう。量子力学、ひいては、自然科学が今日、超越的飛躍(いわば、キルケゴール的飛躍)の実行が切迫していると言えよう。物質からイデアへと超越飛翔する必要があるのである。
 とまれ、ここで、ここで整理するならば、物質的波動空間=量子空間は、メディア・ポイントにおける現象軸空間であり、超越的波動空間=メディア・ポイント空間は、メディア・ポイントにおける超越軸空間(超越軸は虚数軸)であると言えよう。補足するならば、量子論は、超越的波動空間―超越軸空間を導入することで、トランス・量子論へと進展するだろう。PS理論的量子論である。イデア論的量子論である。
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2007年03月29日

連続的同一性化と差異的同一性化との力学:差異と同一性の連続的混沌と超越的差異即非共振性

先に少し言及したが、途中なので、ここで検討を行う。

これまで、⇒-1と⇒+1とはメディア・ポイントMePoの実数軸において、構造(構造主義の構造)を形成し、そこに極性があると想定してきた。

つまり、-1の極と+1の極があり、近代主義とは、前者へ傾斜した場合と考えたのである。

ここで作業仮説だが、MePoの超越的上層(上部)において、差異即非様相をデュナミス=ポテンシャル・エネルギーとしよう。そして、そこから、エネルゲイアが発動して、MePoの下層(底部)へと螺旋回転するとしよう。

このMePoの下層(底部)が、虚数エネルゲイアと実数エネルゲイアとの中間であると言えよう。つまり、ここでも、即非的一性としてのエネルゲイアがあるのである。

だから、MePoの下層部は、現象化の始点であり、実数エネルゲイア即ち、物質エネルギーの原点である。

しかし、思うに、MePoの底部は、あくまで、虚数エネルゲイアと実数エネルゲイアとの即非的交点であるから、ここは即非的エネルゲイアないし即非的エネルギー又は虚・実即非エネルギーが存すると見ることができよう。

(さて、現象化であるが、明快にするために、MePoの底部を底部MePoないしSub-MePo, Bottom-MePoとしよう。そして、上部を上層MePoないしSupra-MePo, Top-MePoとしようか。正確に言えば、底部は底点であり、上部は上点であるが。)

この底点MePoは、虚数・実数即非エネルゲイア(エネルギー)をもっているというように記述できる。

さて、現象化であるが、それは、この底点MePoの即非エネルギーの発動による。それは、思うに、不思議なエネルギーの発動であり、発現である。

なぜなら、一方では、超越エネルギーであり、他方では、物質エネルギーであるからである。

超越エネルギーを差異、物質エネルギーを同一性と見ることができよう。

差異(超越エネルギー)-同一性(物質エネルギー)-差異(超越エネルギー)-・・・

である。差異をD、同一性をI、超越エネルギーをTE(Transcendental Energy)、物質エネルギーをME(Material Energy)と表記しよう。

すると、

D(TE)-I(ME)-D(TE)-I(ME)-D(TE)-I(ME)-・・・

となるだろう。

もっとも-の記号は即非性であるから、☯を使用するといいだろう。

すると、

D(TE)☯I(ME)☯D(TE)☯I(ME)☯D(TE)☯I(ME)☯・・・

となる。

明瞭にするため、

D-I-D-I-D-I-D-I-・・・

を使用する。

DとIとの即非様態が現象界である。

そして、これは、明確には、i*(-i)⇒+1ないしm(ic)*(-ic)⇒m・(+1)・Eで記述される。

問題は、これを、同一性の連続空間と見る近代主義である。

それは、I⇒I⇒I⇒I⇒・・・

である。即ち、⇒-1である。

これは、現象界を単に物質・機械的世界と見ることである。

現象界の底点MePoに於ける差異性ないし超越性を否定・排除するものである。

この否定・排除の力学を解明したいのである。

私はこれまで、一神教・父権主義における連続性への傾斜を述べてきた。

これは、差異と同一性との関係で言えば、同一性への傾斜と言うことができる。

では、傾斜とは何か。

これは、フッサール現象学で言えば、ノエマと外的対象を同一化することではないだろうか。ノエマという自己内観念を、外的対象へと投影して、一体化することではないだろうか。

これは、先に触れた、遠近法や奥行きや第3次元空間の問題と関係しよう。

ノエマと外的対象とを同一化したものが、同一性である。ノエシス-ノエマの差異と外的対象の差異が否定されるのである。

ここには、明らかに、錯誤・倒錯・狂気があると言えよう。

これは、また、ヘーゲル哲学の問題である。

ヘーゲルの理性は、「全存在であるという確信」である。この全体性が僭越なのである。この全体性は何処から来るのだろうか。

これは、端的に、言えば、内的他者・ノエマの否定からだと思う。本来は、超越性があるのである。ノエシス-ノエマは超越性であると思うのである(超越論的主観性)。しかし、この超越性を否定して、全体性を形成すると考えられるのである。

内的他者との共振を否定して、主体が全体化するのである。

そう、ここには反動があるのである。思うに、現象界において、なんらかの苦の経験をする。それに対して、主体は身構えるのである。これが、内的他者との共振性の否定ではないだろうか。

外的対象に対して、主体は身構える。攻撃態勢と取るのである。それは、内的他者を否定して、形成される態度だろう。

つまり、外的対象への反感・反動が、共振的超越性の否定であり、全体性を発現させると思われる。

これが、連続的同一性の起源であろう。

即ち、i*-(-i)⇒-1である。

この反感・反動であるが、これは、どこで形成されるのだろうか。それは、思うに、原-身体と思われる-iが苦を感じて、それに対して、原-主体であるiが反感・反動化するというように考えられるならば、それは、-iとiとの相互作用であるが、反感・反動の主体は、iであると言えよう。

有り体に言えば、苦に対する否定として、連続的同一性が発生すると言えよう。-iの苦の様態の否定としての連続的同一性である。

否定様態としての連続的同一性である。

即ち、マイナスの《力》である。即非共振の力学を太極力学と言うならば、これは、太極力学におけるマイナスの《力》である。この場合は、iを陽、-iを陰とすれば、陽*陽⇒-1である。

結局、本来、陽*陰⇒+1であるが、陰を否定した様相になっている。

当然、否定された陰が潜在することになる。これは、いわば、潜在エネルギーである。そして、これは、本来、陽*陰のエネルギーであると考えられる。

そして、この、いわば、塞き止められた陰・陽エネルギーは、連続的同一性に対して、反作用するだろう。しかしながら、連続的同一性(自我)が強固である場合、それは、分裂性という様態を取るだろう。連続的同一性と陰・陽エネルギーの分裂である。そして、後者が前者に対して、非合理主義的な情動・衝動となって発動するだろう。これが、私が以前執拗に理論化しようとしてきた近代的自我の狂気ということであろう。パラノイアであり、「精神分裂症」である。

近代主義の問題を考えると、この連続的同一性が近代合理主義、唯物論となったのである。それは、陰・陽エネルギー、超越エネルギーの反作用を非合理主義としてもっているのである。

しかし、連続的同一性を単純に否定して、陰・陽エネルギー、超越エネルギーだけを肯定するならば、それは、ポスト・モダンとなるあろう。ドゥルーズやデリダとなるだろう。

なぜなら、それは、iという原-主体性を否定することになるからだろう。ドゥルーズが超越論性ないし特異性とは非人称的且つ前-個体的なものと述べたように、主体性の基盤が消失してしまうだろう。

端的に言えば、連続的同一性の単純な否定は、同一性自体を否定することになるのである。そうすると、陰・陽エネルギー、超越エネルギーの現象化である、本来の差異的同一性⇒+1が消失するのである。

つまり、連続的同一性の単純な否定は、底点MePoにおけるエネルギーの肯定ではあっても、現象化を否定することになると考えられる。何故なら、現象化、自己現象化とは、主体の能動性が必要だからである。即ち、i*(-i)の共振エネルギーは底点MePoにあるだろう。しかし、これは、原主体iの能動性があって、自己現象化が真に発現するのである。

即ち、⇒+1の形成には、原主体iの能動性が必要なのである。それが、連続的同一性にはあると考えられる。だから、連続的同一性を乗り越えて、差異共振化を能動的に認識して、差異的同一性という自己認識現象が生起すると考えられるのである。

だから、トランス・モダンとは、実に的確な命名である。モダンの行き着いたところを乗り越える(トランス)ということであるからである。

これは、現象学的還元であり、また、スピノザの能動的観念と関係するだろう。

以上から、整理すると、連続的同一性という反動的能動性に対して、超越エネルギーの反作用が生起する。

即ち、連続的同一性⇔超越エネルギー

である。これが、末期近代主義の様態である。

そして、この混沌した様態において、連続的同一性を不連続的超越性によって切断することで、連続化が解体して、同一性と超越性とが調和するのである。即ち、差異的同一性⇒+1が形成されるのである。

言い換えると、末期近代において、連続的同一性と超越エネルギー(差異エネルギー)の混淆様態が発現する。これは、混沌・混乱である。

しかし、連続的同一性の連続性を切断すること、即ち、同一性と差異性を不連続化することで、両者の調和への一歩が形成されるのである(不連続的差異論の段階)。そして、切断されて生起した、不連続的差異を即非・共振化することが、次のステップである(プラトニック・シナジー理論の第一歩)。そして、さらに、共振化した差異を超越性・虚数として認識することが到達点とほぼ言えよう(プラトニック・シナジー理論の成就)。

結局、以上から、末期近代において、一種、同一性と差異との連続的混淆様態における極性が生起すると言えよう。そう、連続的極性である。しかし、ここから、超越的差異へと飛翔するのは、必然的ではない。

確かに、そこには、可能性はある。そして、経験的にそのような心性を無意識的に形成するかもしれない。しかしながら、近代主義の枠組み・パラダイムにある限り、その経験的無意識的な心性は、独立できないだろう。

ここにプラトニック・シナジー理論のトランス・モダン哲学・理論としての創造的意義があるのである。

この理論を契機にして、近代主義の悪魔の牢獄世界から脱出することができるのである。

この理論は、二千数百年の叡知の眠りから人類を覚醒させることになる。
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2007年03月09日

近代主義の彼岸とイデア界:近代主義という大無明とトランス・モダンという新大妙光

近代主義の彼岸とイデア界:近代主義という大無明とトランス・モダンという新大妙光

テーマ:日本再生復興計画

九鬼周造の『偶然性の問題・文芸論』の「情緒の系図」にある和歌や九鬼の分析を読むと、現代の日本が何を喪失したのか、直観的にわかる。

先に、メディア・ポイントMPを近代主義は喪失したと述べたが、正に、そのことが直観されるのである。

「教養」の喪失と言ってもいいのだが。

教養とは、自我から自己・個への成就のための知であろう。

近代主義は、自我主義であり、自己・個を否定するのである。

現代日本の惨状の原因は、ここにあると言っても過言ではない。

PS理論的に言えば、メディア・ポイントの不連続性・超越性の様相、即ち、イデア界の否定が根因としてあるのである。

形而上学や宗教や芸術等は、このイデア様相を志向してきたのであるが、これが、戦後教育、唯物科学教育によって否定されてきたのである。

思えば、私も、完全に唯物科学教育を受けて、主観性の発展を自己否定してきたのである。

私は、ロマン主義と唯物科学の矛盾に、思えば、長い間、悩んできた。ロマン主義は、神秘主義やオカルティズムにも通じるものであるが、イギリス・ロマン主義は、啓蒙主義との関係が深いのである。

思えば、唯物科学の物質主義のフレームワークをどう突破するかが問題であったのである。近代合理主義は、物質的合理主義を前提としているから、それを超越する発想をあざ笑う(あざ笑った)のである。

そう、唯物科学の反動として、神秘主義やオカルティズムやニューエイジ・ニューサイエンスの動きがあったと言えよう。しかし、それらは、反動性を強くもっている。

ポスト・モダンは、確かに、近代を乗り越える処方箋をもたらすように見えた。しかしながら、それも、軽薄に終わった。

私は、三島由紀夫のファンではないが、彼の最高のものは、「文化防衛論」だと思っている。戦後日本への憂国の現われとして、「どこかで断絃の時があったのだ」という一言が鋭く私を刺し貫いた。

「断絃の時」なのである。これは、今や、メディア・ポイントの喪失ないし隠蔽として、理論化できるのである。

そして、本稿の冒頭にもなるのである。そして、この問題は、現代日本で先鋭化しているが、世界全体における問題でもあると言えよう。イデア界・叡知界の喪失なのである。

宗教的次元の喪失と言ってもいいのだが、宗教は、一般に非合理主義の態度を取るので、批判知性を喪失する傾向にあるので、強く主張はしない。宗教を哲学化するとイデア論になると思うのである。この宗教の知性・叡知・合理化が実に根本的に重要なのである。

PS理論は、これを為すものである。

九鬼周造の『偶然性の問題』は、形而上学と経験論とを併せ、重ねて、論じた卓抜した哲学書である。形而上学は、イデア論となるしかないと思うのである。

ここで、飛躍するが、思うに、問題は、ロゴス論にあったと思うのである。あるいは、理性論である。西洋哲学では、理性、知性、悟性、等の区別が実に曖昧である。

この混乱は、ロゴス論にあると思うのである。

ロゴスは、古代ギリシア哲学の用語である。それが、ヨハネの福音書の冒頭に使用されたのである。「初めに、ロゴスありき」である。これを、近代西欧は、「初めに、言葉ありき」と誤訳した。

確かに、ロゴスと言葉は、重なる側面もあるが、一致しない。

そう、ロゴスとは、大乗仏教の法(ダルマ)とほぼ等しいと思うのである。

西洋哲学は、理性を比率等として考えたのである。ratioである。

そう、理とは何か、である。

理はロゴスや法と等しいであろう。

そして、直観では、これは、叡知と等しいのである。

すべては、形而上学的智である。

これを、西洋哲学は、言語化していくのである。

ロゴス=言語の方法である。

ソクラテス/プラトンで言えば、対話術(これが、「弁証法」の原義である)である。ここに、西洋哲学、西洋叡知学のエッセンスがあると言えよう。

無知の知、あるいは、クザーヌスの「知性ある無知」である。

そう、プラトンとアリストテレスの分裂にすべての元凶があると言えよう。プラトンは、形而上学的現象学を説いたのであり、考えれば、現象学の始祖とも言えるのである。そして、アリストテレスは、近代科学の始祖とも言えよう。

この二元論に現代西洋文明の超危機の根因があると言えよう。

いったい何が問題なのか。

これは中世の普遍論争に見ることができるが、私見では、一般性と普遍性の鳥違いが問題なのである。

これは実に単純なことなので、これを錯誤した人類史とは何か、と思わざるを得ない。

即ち、一般性は言語形式であり、普遍性は言語形式を超えた形而上学的真理である。この両者を西洋哲学は、ロゴスや理性や知性や悟性と呼んできたのである。これが大混乱の起源であると思う。

近代主義、近代合理主義、近代的自我の「狂気」の根因がここにあるのである。

結局、個物・個体のhaecceity(個体原理)に普遍性があるのであり、それが、形而上学的普遍性に通じるのである。これは、一見逆説的であるが、そうなのである。

九鬼哲学では、偶然性である。

西洋哲学の観念論は、一般性=言語形式=観念=ロゴス=理性と捉えて、形而上学的叡知を完全に外したのである。カントの純粋理性批判は、この理性と形而上学的叡知との混濁である。

そして、この頂点的帰結がヘーゲル哲学である。

そして、これが、マルクス主義やファシズム=国家社会主義を生んだと言える。現代日本はこの最大・最悪の帰結である。

この一般性と普遍性との混同であるが、結局、個物・個体と一般性が結合(野合)してしまったのである。これが、近代合理主義を生んだのである。

そう、この原因は、アリストテレス哲学にあると言えよう。個物・個体の形相を、イデア界ではなくて、現象・物質的経験界に求めたからである。

個物・個体の形相は、イデア界にあると見るが正しいのである。そして、このイデア界的形相が普遍性なのである。

つまり、内在的超越的形相=イデアが普遍性なのであり、一般性は、単に言語形式に過ぎないのである。

ここで、東洋について言うと、大乗仏教という真に偉大な叡知・思想があったため、知性において形而上学性を保持したのである。大大乗仏教である。

つまり、西洋哲学的見地から言うと、東洋哲学は、イデア論を基礎的に保持しているのである。ということは、逆に言えば、プラトン哲学の東洋性なのである。プラトン哲学は東洋哲学と言うべきなのである。対話術も、東洋性ではないのか。

とまれ、大乗仏教哲学をもつ東洋思想は、初めから、形而上学的知性、叡知学であったのである。

そして、この帰結が鈴木大拙の即非の論理であり、九鬼周造の偶然性の論理であると言えるだろう。(西田哲学も、一つの帰結であるが、彼の言語表現に問題はあるだろう。思うに、どうも、連続性と不連続性との混乱があるように思えるのである。)

日本は、東洋哲学をもち、その上で、西洋哲学を移入し、その結晶が両者の思想・哲学であり、世界に誇るべき成果である。

しかし、日本は、西洋コンプレックスのために、正しい自己評価ができないできてしまったのである。

物質文明へのコンプレックスである。

確かに、世界は、地球は、西洋近代物質主義暴力・狂気文明に侵略されたのである。

そして、その惨状が今も続いているのである。人類終末期を迎えているのである。

さて、問題は、日本である。なぜ、自己を見失ったのか。持論では、排仏毀釈にある。国家神道にある。ここで、日本は、思想的バランスを喪失したのである。

国学は、キリスト教の影響を受けているのである。それは、一神教的志向をもっているのである。これが、他者を喪失させたと思われるのである。

では、なぜ、一神教は他者を喪失させるのか。

一神教は、結局、自我を肯定してしまうからである。自我と唯一神とを一体化させてしまうのである。確かに、本来、一神教の神は形而上学的次元、イデア界的次元に存している。そして、この次元は、自我からは超越した次元である。

しかし、いかに、自我から超越した次元とは言え、唯一神の同一性は、自我の同一性と連続化してしまうのである。凡人・愚者の有り様である。

結局、自我即唯一神となるのである。これが、狂気なのである。

これが、近代的自我である。

自我が普遍性となれば、当然、他者はなくなるのである。

これが、狂気・暴力を生むのである。

確かに、キリスト教等、一神教は、本来的には、優れた宗教であるが、しかし、自我と結びやすい宗教であることは否定できないだろう。

「主」という主語が、他者である述語を支配してしまうのである。

「主」という超越的同一性が、他者・差異を否定しまうのである。

PS理論は、「主」の超越的同一性を否定・無化するものである。

その代わりに、イデアである差異即非様相を置くものである。ここには、差異的同一性があるのであり、自己と他者との共振シナジー様相があるのである。

そう、一神教的「主」が、ここでは、解体して、他者との対話を永遠継続しているのである。

そうすると、一神教とは何か、ということになるだろう。

これまで私が述べてきたことは、それは、自我に傾斜しているということである。あるいは、父権主義であるということである。

「主」・唯一神の「我」とは何か。それは、自我であるのか。「復讐するは我にあり」。もし、イデアが神ならば、それは、「我」になるだろうか。

それは、元知と元身体との即非関係である。あるいは、元自己と元他者との即非関係である。そのイデア・叡知を「我」と言うのだろうか。それは、「我」、「自我」ではありえないだろう。それは、少なくとも、元個、元自己である。あるいは、元自他である。元・我ー汝である。根源的複数である。

だから、やはり、一神教は自我に傾斜している邪教ではないだろうか。
posted by sophio at 19:49| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | プラトニック・シナジー理論入門 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年10月13日

プラトニック・シナジー理論入門:1

これから、少しずつ、プラトニック・シナジー理論について、わかりやすく説明したいと思います。今考えているのは、多く人にとって、分かりにくいのは、この理論のイメージがわかないからではないかということですので、私の頭にある、イメージ、ヴィジョン、直観像、概念像を、提示したいと思います。私は、いつも、このヴィジョンを基にして、考察しています。ですから、このヴィジョンをわかりやすく提示すれば、多くの人にとって、本理論がわかりやすいものになるのではと思われます。是非、ご自由に、ご質問ください。
posted by sophio at 02:29| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | プラトニック・シナジー理論入門 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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